昭和40年02月14日 夜の御理解
花が咲いてそれが散って、それが実りになると。花が咲いて散って実りになる。信心さして頂いて花が咲く世の中には尊い師匠、蕾のままで終えたり、ね、花が咲かんなりに終える人が沢山あります。れども信心をさせて頂きますと、ね、必ず花が咲きます。「信心辛抱さえしとけば、必ず成就せん事はない」とおっしゃいますのは、必ず花が咲くと云う事なんです。ね、
ところが花は咲かせるけれども、その花はやっぱり花ですから花は散ります。ね、それを実りにすると言う所が、信心してお蔭を頂く。おかげを受けると信心して徳を受けると云うのはそれ、そこのところのおかげをを頂かなければ値打ちはない。そこに信心の日々の稽古がある。何十年たっても同じ事。今日はある教会の楽員さん達が、舞人さん達がもう70年からの歴史をもった教会です。見よりましてからもう全く今日はあまりお参りが多いもんですから、ここへ出て来る暇がないぐらいにある。
丁度、私が昼下がる時220、230人お取次させて頂いた。とにかくもう今日そのお参りが、とにかくびっくりしてるんです。ね、お話も出来んから【 】その人たちのお話しを聞かせて頂いておりますと、本当に一時は確かに花が咲いているんですね、みんな。けれども花が散ってもう淋しい所、しかもそのままではもう淋しいまま終えていかなければならんだろうという人達ばっかり。これでは折角信心頂いても値打ちはないなと私、思うたんです。ね。
信心をすれば必ずおかげは受けられる。信心辛抱さえしとりゃ必ず花が咲く。けれどもその花が散ってしまう。ね、けどもその散った花がです、実りになれば有難いのである。所が実りにならん。そこで私は本当の意味で信心の稽古、本当に本気で信心の稽古をせにゃいけん。日々に様々な事柄の中からです信心の稽古をさして頂かねばいけん。例えば一つの事柄でもですね、例えばお叱りを頂いたとするかおきつけを頂いたとするか、例えば同じ叱られたと致しましょうかね所が腹が立った。ね。
と言う人段々おかげ頂いて、どげんやかましゅ言われたちゃ腹が立たんごとなりましたと言う人、この頃もう怒られるたんびに有難たいと思いますと言う人と三つあるんです。皆さんどうでしょうか、怒られたら腹が立つ。ね、いいえおかげでこの頃腹が立たんごとなりましたと。そういう稽古をいわばする訳なんです。ね、そして怒られた事はです、もう思えば思う程、有難うなって来たと云うもの。ね、思えば思う程私の事思うて下さるから怒っても下さるんだ。
叩いても下さるんだとこう思うたら、それが有難うなってくるというふうに、ね、信心が育っていかにゃいけませんのですよ。そこん所のおかげを頂かしてもらうと、必ず実ります。ですから皆さんどうでもこうでも、そこん所に焦点をおいて、信心の稽古しなければいけない。怒られると言う事も、これは一事が万事そうです。ね、まぁ例えば人に引っ掛けたと致しましょうかね、もういつまでも忘れきらん、あれが引っ掛けたとこういう、ね。所が段々おかげを頂いてからですたい、思いがようなる。ね。
前んしょうでかとったんじゃろうというごたふうに思い返しがようなる、又次にはです、ほんとにそのお取り払いを頂いた事が有難いと言う事になってくる。お取り払いを頂いたと言う事が有難い。只やっぱり長年信心しとる方ですから分かる所が分かる。朝の御理解を頂いてから、そのやっぱ分かる所は分かっておられる。私がお道の信心をさせて頂いて一番有難いのは、めぐりのお取り払いが頂ける事ですよと。次にはそのめぐりのお取り払いだけではなくてです、ね。お徳を頂いてゆける道を教えて頂く事ですよ。
これ二つですよ。金光教の信心の一番有難いのはねそれは分かられるですね矢張り、めぐりのお取り払いを頂く時には、矢張り難儀は難儀だと言う事。けどもそのめぐりのお取り払いがです、難儀な事によってです「やれ痛や今みかげをという心」今めぐりのお取り払いを頂いております。有難うございます叩かれても腹が立つ時代、腹が立たん時代いいえ私の事を思って下さればこそ、こうして鍜えて下さるんだ教えて下さるんだという頂き方が、めぐりのお取り払いになるんですよ。
それがそのままあの世にも持っていけ、この世にも残しておけれる、お徳になるとですよ。ですから中々矢張り、そこの所を稽古をさせて頂いた上にも、稽古をして頂きよらんと、それがすぐ出て来ない。ね、初めの間は腹が立ちよりました。それをようと考えよりましたら、腹が立たんごとなりました。又ようと考えさして貰いよりましたら、これはお礼を申し上げる事だと気が付くようになりましたと言う所位までは、早くおかげ頂かなければならんと言う事ですね。
おかげ頂かにゃいけません。